”くそ”まじめ

ガンバレルーヤのよしこの影響なのか、最近、”くそ”という強調の形容詞を連発して使ってしまう。もう四捨五入したら50にもなるというのに、くそ忙しいっていうのが口癖になるなんて…

その布石みたいなものがゼミの3年生にあって、ゼミ生がまじめで、多くの学生が、素直かつ”くそ”まじめである。そこでくそまじめだなぁみたいなことを言っていたら、口癖になっちゃった。

ただ、まじめゆえ、私との距離感はまじめなままで、教員と学生といった関係。それは普通のことでしょ、っと突っ込みがあるところですが、ゼミ生にとって、ふざけ合いながら多少突っ込むことができそうな先輩的な存在でいたい。だけど、そういう関係を形成するのは年齢的にも無理なのかなぁと思いつつ…

課題をこなすだけの能力を鍛えたいなら、学生も私もまじめでいいわけで、その点なら今年の春学期のゼミは学生も私も満点に近かったのではないかと、うぬぼれてもいいぐらい。でも、うぬぼれきれないのは、こうじゃない、これが理想じゃない、とささやく自分がいるから。主体的に取り組む力を、研究を通じて育ていくには、ざっくばらんな関係の中で、横道にそれまくりながらも議論していくっていうのが私のやり方。そういった距離感を近づけることができたかというと、私なりの及第点に達していない気がする。本当に難しいと思いながら、これからの合宿や秋学期のゼミの進め方を通じて、頑張っていくしかない。ここから。ただ、まじめゆえ、可能性をめちゃめちゃ秘めている。ゼミブログでのまとめがそう感じさせる。これからが楽しみだ。

春学期 第15回

距離感という意味では4年生にも当てはまっている。教員ー学生の関係性となるご、学生の基本的姿勢は受け身となりがち。なので、4年生で卒論がなかなか進まない学生が多い。これまでなんとかなってきたから焦りもあまりなく、先輩たちをみてきて、私も何とかなるという感じを持っている。だけど、卒論研究はそうじゃない。先週と今週の卒論ゼミで4年生には厳しい話を伝えた。主体的に自らで進めないと、卒論は進まないよと。

昔のゼミ生たちは、くそまじめではなかったが、くそ面白く、主体的であった。

継続性のあるゼミ運営だから、課題をこなしたり、プレゼンスキルは昔と比べると格段と力をつけることができている。昨年の先輩には負けないようにということを積み重ねてきたから。それゆえ、これに加えてくそ面白さも求めるのは…と思うけど、それが理想なんだ。

大学も変貌を遂げてきて、カリキュラムで学生がどうにかなると思っている人たちが増えてきた。そうじゃないと心から思う。演習や卒論研究といった学びの集大成の中で、仲間と切磋琢磨しながら、カリキュラムで学んできたことを生かすのである。