谷田です。
連日投稿です。
卒論の4年生のがんばりに触発されているのかなぁ。
明日を締め切りとしてたので、最後の指導を今日終えました。
明日は私が授業が多いので、3時間目のみの間しかなく、全員の卒論に目を通すことができないので大半の学生には、後は自分との闘いだよとコメントしました。
卒論ゼミ生に90年代の音楽に詳しい学生がいましたので、よく昔の音楽を聴きながら分析を行うことが多く、家に帰っても昔の音楽をYoutubeで探したり、思わず想いにふけることも多かったのです。
思い出話を書きならが4年生にメッセージをここで書こうかなと思いました。
今は、いしのだなつよ、という、昔にすごく励まされた「ひまわり」というアルバムを聴いています。
私は2つの大学を卒業しています。
一つ目の大学は卒論はありませんでした。ただ、4年生のころは多感でいろんなことに悩み、傷つき今では信じられないぐらいネガティブな人間だったのです。いろいろあって卒業間際はあまりいい思いではありません。卒業式も出ることができませんでした。
そこから方向転換して、今の学問を学ぼうと編入学をしました。しかし、レベルの違いに圧倒される毎日でした。一生懸命追いつこうともがく毎日でした。卒論に関しては、今もお世話になりっぱなしの先輩の元で指導を受けることができたのですが、最後何日も研究室に泊り込んでも文章が書けず、3分前に提出はできたものの、その後の卒論パーティでは、情けなさと、ふがいなさばかりが溢れて、同じ思いをしていた2名の同級生と、パーティの教室を離れて、口述試験では挽回しようと励ましあったことも鮮明に覚えています。そして、帰り道に雪の舞った北大のメインストリートを歩きながら、自分が嫌で嫌で、何もかも投げ出したくなりました。卒論を執筆しおえた充実感などなく、帰り際に先輩から、大学に残しておく卒論(提出したものではなく、研究室で保管するもの)は、差し替えたほうがいいね、とアドバイスされたことも、心に重くのしかかっていました。
でも、そのころの自分があるから、今の自分があると思います。
当たり前のことですが、うまくいえないですが、卒論という過程にこそ、大切な何かがあるように思っています。私の場合は卒論に対して良い思い出はないですが、やり遂げことに意味がありました。卒論の内容ではなく、卒論にいたる苦しみやうれしさ、いろいろな人の支え・・・これらの経験がなければ今の自分はないと思えるぐらい、自分にとって大切な思い出です。
今年の谷田を指導教員とする4年生は当初13名でした。就職活動の変化もあり、毎週開催していたゼミもほとんど出席できない学生もいました。11月に入り、大学院室に連日遅くまで卒論を執筆している学生もいます。あまり、集中できずに明日を迎えた学生もいます。体調を崩し、今年の卒論執筆をあきらめた学生もいます。最後の最後で、ぐっといろんなことをこらえて挽回した学生もいます。みんなのためにと気を使って盛り上げてくれる学生もいます。アゲインと提出前日に序論の変更を指導された学生もいます。エースとしてずっとがんばってくれた学生もいます。
明日が最後ではなく、卒論を通じて経験したことを、成長した部分を、変えたいと願ったことを、きちんと自分自身で消化して今後の人生に役立ててくれるとうれしいです。
あと1日。最後に自分自身と闘いながら、みんなの支えに気づき、それらに感謝することができれば何よりです。
最後の串かつ誓いです。
明日は自分に勝つ。
私が疲れてちょっと一杯してから戻った、後ろめたさからの差し入れではないですよ。
谷田